自主活動グループの広場

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タイトル

歩こう会B 活動紹介
~「高松かるた」散策⑨~

活動地域

茨城県鹿嶋市

日時

2023年1月11日㈬ 茨城県鹿嶋市

グループ名

歩こう会B

グループのメンバー数
3名(男性1・女性2)
活動開始時期
2012年12月
プログラム
ウォーキング
情報

「高松かるた」第9回 谷原・鰐川地区

青天に恵まれ風もなくウォーキング日和。高松公民館に集合。今日の行程の鰐川まではちょっと遠いので、途中まで車移動。

産業道路手前に車を止め、国道124号線と産業道路の交差点を渡り、谷原河岸を目指します。産業道路を西に向かい、500mぐらいから左折、谷原橋に向かう。橋の手前すぐそばに鳥居があり、注連縄がかけられ鏡餅が飾られていました。そこに立っていました。

 年貢米 江戸の積み出し 谷原河岸高松かるた⑨1

鰐川から今は掘割川になっていますが、昔は河岸だったのですね。昔この一帯は旗本の領地であり、収穫された米は年貢米として船で江戸に運ばれたそうです。現在は干拓された田んぼが続きますが、ずっとずっと川だったのでしょう。橋を渡るとその干拓がなされた鰐川地区です。掘割川の土手沿いに立て札を探し向かいます。

 鰐川の 干拓昭和 大事業

鰐川は、北は北浦、南は利根川に通じる一級河川です。鰐の名は、昔鰐魚(ガクギョ)<現代でいうサメかワニ>が住んでいて住民を悩ませた場所と言います。鎌倉時代に鹿嶋に赴いた僧が鹿島神宮のご神木を伐り、地蔵菩薩を造ってその鰐を退治したと伝えられています。干拓は江戸から明治時代にかけても計画され試みたが、成功せず大正8年、政府が「開墾助成法」を制定したこともあり、高松村谷原の野口準、息栖村下幡木の馬場要之助が中心になり、念願の鰐川干拓の決意し推し進めましたが、関東大震災もあり資金融通が途絶えました。が、間組の鈴木堅蔵が支援の手を差し伸べ、苦闘10年。昭和3年地鎮祭を挙行、開墾に着手。近隣下塙地区の台地からトロッコ列車で土砂を運び、築堤小路や排水機の取り付けが行われ、昭和8年に竣工を迎えました。鰐川の大半は水田に変わり、215町歩の良田ができたのです。高松かるた⑨2

この読み札は堤防沿いの集落の消防小屋の脇に建てられていました。すぐ近くの畑で草取りをしていた老婦人に挨拶すると、昔お嫁に来た頃は、堤防がまだ低く、台風が来ると洪水になり、腰まで浸かって急ぎ稲刈りをしたそうです。大変な苦労だったことがわかります。その後農地区画整理がされ、機械化されての今、どんな思いでしょう。今は二重の堤防になったとのおはなしでしたので、堤防に上がってみました。本当に堤防は広く鰐川の水の穏やかな豊かさ、カモやサギなど水鳥が飛び立ち、冬の風景は静かで美しかったです。

高松かるた⑨3 

暖かな日差しを浴びながら、車も来ない行き交う人もいない長い堤防をゆっくりともどりました。

<2023.1.16 掲載>